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肝心なものだけがいつもぼんやりして見えない。
夜明け前、ふたたび。
恋愛について。

データベース創作。

#これはみなさんに向けたものというより、僕自身の忘備録として書いたものです。自分勝手な文章をアップしてすみません。




 よく、「日本の音楽は欧米の音楽の全て借り物だ」という議論がある。
 でもいまや、偽者/本物という対立は、生楽器か打ち込みか、と同じくらいもう対立概念の意味を持たなくなってしまっている。人がたたいたドラムのタイミングを機械でずらすのはもはや打ち込みだし、人が歌ったものを再構成するのも打ち込み。「本物」という概念自体がもう存在しなくなってしまっている。

 そんな時代にあって、たぶん、そもそも「借り物である」という自覚自体がなくなっている、というかそういう問題意識すらなくなっている我々の世代が、「借り物だ」と批判されてもたぶん我々にはピンとこない。
それはあたかも「やっぱ生楽器が最高で打ち込みなんてクソだ」と言われた時のように。


 東浩紀氏の論は不勉強で読んだことがなかったのだけれど、読んでみてとても納得してしまった。

つまり、以前の音楽創作者はポストモダン初期の創作者として「大きな物語」(これがいわゆる「ルーツ」など)を念頭に置き、「ロックの精神性」とか「R&Bの黒人音楽としての歴史」を念頭において音楽を作ってきた。そういうものが「本物」で「権威あるもの」だった。

 それが、時代は流れ、「大きな物語」(=ルーツ)を意識する「ポストモダン初期」の時代から、その「大きな物語」自体が解体することになる「ポストモダン後期」の時代へと進むことになる。


(これは文化論的にいうと、「こうあるべき」という大きな権威が解体されたということになる。たとえば「不倫はするべきではない」とか「結婚したら同じ苗字になるべきだ」といったような。「ルーツは尊重すべきで、ロックの精神性を守れ」というのもこれと同じ「権威」である。

 これを東氏は敗戦によって、今まで日本人が信じていたような価値観がことごとく否定されてしまったため、と述べるが僕は厳密にはそうは思っていない。
 
 特に大衆芸術の世界では、それは人間の生理的な問題なのではないかと思っている。平たく言えば「気持ちいいメロディ」というのがもう限られている、ということに気づいてしまったのだ。現代音楽などでは「気持ちいい」というところをとりあえずはおいておいて、芸術性にまい進するが、ポップミュージックではそうではない。

 そうなると、「気持ちいいように、自分で「気持ちいい」要素をデータベース化して、それを取捨選択して組み合わせて作品を作る、という考え方に行くのはもう必然なのではないかと思うのだ)

 さて、「大きな物語」が解体したあとは、「小さな物語」(商品、作品)を消費して「大きな物語」を想像して楽しむ、という現象が起こる。つまり、大塚英志が指摘するようにビックリマンチョコを買って、その奥の大きな設定(誰と誰が戦って、誰と誰が敵で味方で、といったような「裏設定」)を楽しむ時代、ということだ。

 音楽に置き換えると、今までは「大きな物語」にのっとった音楽(たとえばルーツミュージック)を楽しんでいたのが、これは90年代の「渋谷系」と呼ばれるオザケンさんなどによって起こったムーブメントだが、「大きな物語」が「引用」された「小さな物語」を消費し、その裏の「元ネタ」を想像して楽しむ、といったような行為がそれにあたる。これはポールサイモンのストリングスフレーズだね、みたいな感じですね。
 これは古くは日本でも「本歌取り」という形で行われてきたことである。

 で、さらに時代は進み、その「小さい物語」から「大きな物語」を想像する、というシステム自体が解体する時代が来たと東は主張する。

 東は、消費者側が自分で消費する事象をデータベース化でき、頭のなかで萌え要素を好きに組み合わせることができるエンタテインメントを求めているという。たとえばエヴァンゲリオンのアヤナミレイの容姿で、アスカラングレーの性格だったら俺は萌えるな、なんて思って、そういうキャラクターを絵にかいたりムービーを作ったりしてニコニコ動画にアップする。

要するに勝手に想像するのだ。「誰誰と誰誰が恋におちてたりすると萌えるじゃん・・・みたいな物語を創作したりする。

音楽でいうと、この曲のリズムパターンとこの曲のピアノを組み合わせて自分好みの音楽を作る。また、そんな行為でなくても「リミックス」という形でボーカルトラックに新たなアレンジをつけて再構成するといった行為は80年代から存在していた。

これは言い換えれば、「消費者は自己参加型のエンタテインメントに慣れてしまった」という状態になるのかもしれない。

 こういう「二次創作的」(なにかの作品に基づいて新しく作品を作ること)な消費者の振舞いが、東が言うところの「データベース消費」だが、実は創作者の側からも「データベース制作」という現象が起きている、ということが今回の僕のテーマなのである。

 そういう時代においては、我々のなかでは「かっこいい」(これは東氏は「萌え要素」といっている)音楽の「かっこいい」要素が記号化され、解体されて整理されてデータベース化される。

 実際我々が作品を作るときには、「かっこいい」メロディが自分の内部で(意識的であれ無意識的であれ)データベース化されたものを再構築し、「かっこいい」音のサンプルをそれこそ大量に持って(僕は何万個も持っている)、それを組み合わせて何通りもの作品を作る。もはや「引用」の感覚すらそこにはない。

 悪く言えば、東氏が言うように「効率よく感情を動かせる」ように。人の感情の「ツボをうまく押さえる」ように。

 東氏の指摘する通り、 「シミュラークル」(データベース創作によって作られた、互いに代替え可能な作品群)からデータベース(かっこいい要素がカタログ的に整理されたデータベース)へとさかのぼることは不可能」ということが現代の大量の縮小再生産を可能にしている。 元ネタがわからないからいろいろ組み合わせの幅が無限になるからだ。

消費者が、そのデータベースを想像することはそういう理由から不毛なことになってしまった。 僕の「かっこいい音データベース」を消費者が想像したって意味がない。これ、ケツメイシのあの部分とレディオヘッドのあの部分の組み合わせだね、なんてはっきりわかればいいけど、もうわからないくらいごっちゃになって解体されてるから。

 だから「ツールがない」とか「ジャンルとしての精神性がない」というのは、そのポストモダン的創作者の振る舞いが、ポストモダン初期の人間に「違和感」を与えているという考え方も出来る。

 また、「引用元に対するリスペクトが必要だ」というのは、「小さい物語」の後ろに「大きな物語」が想定されるべきだ、という「大きな物語」時代の次の時代の「渋谷系時代」の感覚に基づいている。

 でも、現代の創作者はそういうことをいわれても(僕もそうだが)両方ともピンとこない。つまり「大きな物語」がなんらかの形で背後にあるべきだと批判されても、それ自体が現代の創作者には意識として、あるいは前提として存在しないからだ。

 我々ポストモダン後期の創作者は作品の一部分だけを読みこんで、そこから自分で二次創作的にいろいろ想像して楽しむ、といったような「データベース消費」という振舞いに対してデータベース創作を行う。そういう意味で我々は確かに時代の子たりうるということになる。

 では、しかし我々は「感情を効率よく動かすこと」のみを、あるいはかっこいいい要素だけを単純に組み合わせて都合がいいクールな音楽を作ることだけを念頭においているのか。
 
 確かにそれのみを考えて作る場合は絶対にある。なぜなら消費する側がそれを求めているのだから。我々は消費者側に「都合良く部分的に読み込める感動できる断片」を提供することになる。全体としてのトータリティとしての音楽と同時に、ここの音が好きだ、とかこの言葉が好きだ、といったようなデータベースを提供する。 
 もちろん、それが出来ないのであればプロである必然性自体がない。趣味でいい。
 でも、必ず我々は「自分のフィルタを通す」という作業を行う。

 自分のフィルタを通して、そこに自分の大切なもの、伝えたいものをくっつけて作品に託す。
 本当に身を削るような思いで、誰かに届けたいという衝動のもとに我々は作品を作る。

 消費者も、創作者も自己参加型エンタテインメントといった形の様相を呈するようになった現代、確かに消費者の二次創作物と僕らの作品を分かつ壁は傍目から見ると「有効に感情を刺激できるのか」という技術的なところになってしまうのかもしれない。

 でも僕は、というか我々はもちろんそれ以上のものを託したいと思っている。作品に「引用」以外のなにか自分のなかの大切なものがくっついていく、と信じるのが我々のロマンだw。

 作品が音楽である意味、音楽でしかできないこと。サンプリング以上の感動。いや、違うな、サンプリングを前提とした時代としてのリアリティを写し取った感動や共感。データベース消費の時代ならではの深い感動は絶対にあるはずだし、それは絶対に我々創作者が提供できるもののはずだ。

 それができない創作者はもはや創作者なんかじゃない。ただのパズル職人だ。

 東氏は、「データベースの組み合わせで作られた作品」たちを、消費者がどんどん聞きたい部分だけを聞き、聞きたくない部分はスルーして、並行移動的に作品と作品を行き来して消費する、と述べている。


そして僕は、その現状にずいぶん昔から自覚的だ。そして、矛盾するようだけれど、それらの並行世界は基本的に代替可能だとは思っていない。 データベース的に作られた作品に、創作者、消費者が、なにかしら自分のなかの大切なものをくっつけて感動するとき、それは「ほかの作品で代替え可能」なものにはならないからだ。

つまり、作品たちは本質的な意味でのシミュラークルではないと考えている。でも当然シミュラークル消費的に同じような作品を想い入れなく行き来しているリスナーも存在するし、それを「思考停止的大衆」と呼ぶのだろうか。

いや、別に音楽は嗜好品だ。そういう楽しみ方もあっていいと思う。音楽自体に興味を持たなくたってそれすら自由だ。

だが、僕は少しでも「代替え不可能」だと思ってもらえるような音楽を作っていきたいと思っている。

コメント

こんばんは。
2回読み返しましたが、スミマセン…あたしには少し難しく、あんまり理解できませんでした↓
ただ長瀬さんがどんな想いで音楽を創っているのか、なんとなく分かった気がします。

「代替不可能な音楽」色んな音が溢れる時代の中で誰かのなかに深く残る曲をこれからも期待してますね♪

>カラーさん

これは僕が自分の考えを整理するためだけに書いたことなので気にしないでくださいw。単なる自分勝手なブログです。


いつも読ませていただいています
言葉は難しかったですが
私は、私自身も一作家として、
東氏にはまったく賛同できず
長瀬さんのお考えに共感しました
同じメロディでも、演奏する人が違えば
違う曲、とすら思います
結局音楽を奏でる人の心・思いが
音楽の本質ってことですかね
これからも頑張ってください

そうでしたね(笑)でもちょっとでも解かりたいと思ってます。

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